友達申請を受け入れたら、急に、「南無妙法蓮華経について」のような、長いメッセージを頂きました。

FaceBookの友達申請をいただき、受け入れたら、急に、以下のメッセージを頂きました。急であろうが、メッセージはどのようなものであれ歓迎です。但し広告は結構です。メッセージを頂く場合は、私とのコミュニケーションや連絡のやりとりです。知り合いやお友達から頂く。そして、切通さんもお友達です。
 メッセージをここに掲載して、SNSにも分散しても良いという承諾をいただき、全文を原文のまま掲載します。久しぶりに、実名を明かしている方と、しっかりと楽しいお話ができそうです。楽しみです。

(以下頂いたメッセージ)

 

 

こんばんは。 この度は早速の御承認、恐悦至極に存じ上げます。 小生、日蓮正宗宝淨寺(東京都大田区)を菩提寺とする者であり、神戸市垂水区在住の切通(きりとおし)正義(まさよし)と申します。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。

さて『幸せ』の意味を調べました所、国語辞典の最初に『運がよいこと。』とあります。但し、それは世間法によるもので、仏法の『幸せ』とは異なります。 因みに『南無妙法蓮華経』には「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という意味がございます。 『南無 』とは『楽』の事で、無上の安楽のことです。 すなわち、生きていること自体が楽しいという絶対の幸福感をいいます。

『妙法』とは『我』の事で、自我の生命が自由自在で他から何の束縛も受けないことです。 すなわち、何ものにも惑わされない円満で強靭(きょうじん)な主体性をいいます。

『蓮華』とは『浄』の事で、煩悩のけがれのない清浄な命のことです。 すなわち、何ものにも染まることのない清浄な生命をいいます。

『経』とは『常』の事で、仏の境地・涅槃が永遠に不変不改であることです。 すなわち、くずされることのない自由自在の生命活動をいいます。 御本尊様を頑なに信じて、南無妙法蓮華経と唱えると、私たちの命の中には、「仏界(ぶっかい)」という、えもいわれぬ清々しい命が沸き起こってくるのが感じられます。 つまり、どのようなことにも、けっして揺らぐことのない安穏な境界、それが真実の幸福(幸せ)なのです。

ここで『幸せ』を『功徳』に置き換えてみました。『功徳』とは、世間法(国語辞典)では『現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行。御利益 (ごりやく) 。』の事であります。 しかし、日蓮正宗でいう功徳とは、現世利益のことではなく、「積功累徳(しゃっくるいとく)」、「功能福徳(くのうふくとく)」のことをいいます。

積功累徳とは、功を積み徳を重ねることです。功能とは、原因となって結果を引き起こすことです。福徳とは、善い行いをすることにより善い報いを受けることです。

つまり、何ものにも脅かされない安心立命の境界の確立と、生命の浄化、そして物心両面にわたって福徳に満ちた人生を築くことが、妙法信仰の功徳なので御座います。 いつの日か、ご一緒に日蓮正宗総本山大石寺へ参拝できます様、心より御祈念を致しております。

平成29年3月吉日 切通 正義

“友達申請を受け入れたら、急に、「南無妙法蓮華経について」のような、長いメッセージを頂きました。” への36件の返信

  1. おはようございます。頂いたメッセージを、原文を一切加工せず、引用として、私のブログで紹介させて頂いてよろしいですか。ブログは、http://www.masawaka.comで、ここに掲載された記事はSNSなどにも分散されます。それでは、今後ともよろしくお願いいたします。

    1. 切通さんから

      「こんにちは。
      平素より日蓮正宗の信仰に御理解を賜り、誠に有り難く、厚く御礼を申し上げます。
      メッセージの原文は、どうぞ御自由に御使用くださいませ。

      さて小生、2月19日(日)には宝淨寺支部総登山の為、日蓮正宗総本山大石寺へ参拝してまいりました。
      仏祖三宝尊(仏法僧の三宝)に、皆様のご健康とご多幸を心より御祈念させて戴きました。
      宝淨寺第2回支部総登山は4月22日(土)です。
      是非とも御一緒に参拝しましょう。真実の幸福が待っています。

      日蓮正宗総本山大石寺(本門戒壇の大御本尊様)に向かって御題目(南無妙法蓮華経)を真剣に唱えれば祈りが必ず叶います。 しかし、本門戒壇の大御本尊様への絶対的な確信がなければ祈りは叶わず、少しでも気持ちに不信や疑い怠慢があると絶対に叶いません。日蓮大聖人様は本門戒壇の大御本尊様を信じる心によって祈りが成就することを御教示です。
      本門戒壇の大御本尊様に祈るときに大事なことを日蓮大聖人様は、よき師である日蓮大聖人様をはじめ御歴代上人、よき檀那である日蓮正宗の法華講員、よき法である本門戒壇の大御本尊様の三つが寄り合って祈ることが大事であり成就すると御指南です。 その三つが寄り合って祈るところ日蓮大聖人様が『聖愚問答抄』に、「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」(御書四〇六㌻)と仰せのように、本門戒壇の大御本尊様を疑うことなく信じ祈るところに我々の過去遠々劫の罪障消滅と福徳(御仏智)を積むことができるので御座います。」

  2. ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします。

    まず自己紹介はFaceBookのとおりで、私は一切の宗教に属していません。
    ただ、今は生きているので、生きているだけのものです。死ぬときは、やむなく死ぬものです。それ以外は何も必要ありませんが、いつも欲望溢れ色々なものを欲しがっています。
    それを踏まえて、色々とお話しさせてください。いつまでも、私とお話ししてくださることを心から願っています。

    *****************内が、頂いたメッセージです。その後に、私のコメント書いています。

    ****************************************************************************************************
    こんばんは。
    この度は早速の御承認、恐悦至極に存じ上げます。
    小生、日蓮正宗宝淨寺(東京都大田区)を菩提寺とする者であり、神戸市垂水区在住の切通(きりとおし)正義(まさよし)と申します。
    どうぞ宜しくお願い申し上げます。

    さて『幸せ』の意味を調べました所、国語辞典の最初に『運がよいこと。』とあります。但し、それは世間法によるもので、仏法の『幸せ』とは異なります。

    因みに『南無妙法蓮華経』には「常楽我浄(じょうらくがじょう)」という意味がございます。

    『南無 』とは『楽』の事で、無上の安楽のことです。
    *******************************************************************************************************
    南無とは、例えば、「おお」とか、「うわあ」とか、あるものに絶大な敬意や尊敬をしたり、あがめうやまうときに、その簡単を表す感嘆詞です。すなわち、南無妙法蓮華経とは、「おお」南無妙法蓮華経ということで、これほど素晴らしい経典はないという言葉です。
    楽は「楽しい」ということですが、苦がないことも相対的に「楽」(らく)という字を当てています。即ち、楽は絶対性であれば、自分だけであり、楽しいのです。ところが、相対的に苦楽をとらえると、苦がないということになり、即ち楽をするという意味にもなります。

    従って、(『南無 』とは『楽』の事で、無上の安楽のことです。)といはどういうことなのか分かりませんので、もう少し詳しく教えてください。

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    すなわち、生きていること自体が楽しいという絶対の幸福感をいいます。
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     生きているのが楽しい。これは絶対的ではありません。生きていること自体が楽しいのなら、死ぬことは苦であるとも言えますね。しかし、生きていること自体で楽しいのが事実です。しかし絶対的ではありません。
     絶対的とは、生きていなくても楽しいのです。これが涅槃です。
     生きるも死も無い、又溢れるほど存在する世界があります。ここは絶対的です。
     生きているならそれで十分です。即ち楽です。そして死ぬのなら、それも十分です。存在したのだからそれでいいのです。死ぬも生きるもあたりまえだから、今のこの刹那を生きているなら、生きていることを楽しむだけです。だから、生きることを排除しないだけです。
     幸せという字は元々は「手かせ」からの象形文字です。
     罪を犯して「手かせ」を填められたら、もっとひどい刑罰は投獄や死刑もあり、そして、「手かせ」を填められていない自由な身もあります。
     しかし、この「手かせ」を填められて手の自由が奪われているということは、実は人間と同じで、人間という条件を持ってこの世を生きている状態と同じです。空気を吸い食べ物を食べないと生きていけません。これが「手かせ」です。
    この「手かせ」が有る状態を完全に満足する。即ち現状にある刹那を思い切り楽しむ。遊戯三昧です。
    この、「手かせ」があっても満足であるという状態が幸せです。
    即ち、人間としてならは生きているだけで幸せなのです。そして命の限り生存したのなら、やむを得ず死んでも幸せなのです。存在という実存に戻るだけのことです。涅槃にいる人間が、人間を終えただけです。「手かせ」が外れただけです。
     そこには、幸せという概念すら存在しません。すでに何も条件が無い完全だからです。これが根底になって人間を遊戯三昧に楽しむ、このような生き方こそ、仏教の目指す道にしてほしいものです。

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    『妙法』とは『我』の事で、自我の生命が自由自在で他から何の束縛も受けないことです。
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     確かに、『妙法』は不可思議な方という意味の他に、「妙」と「法」に相対性を持たせて、各宗派の方便として使用しているところもあるようですが、「我」をあらゆる生きものの個性を表す「妙」、そしてそのような個性、即ち我を存在させない「法」として説明するのもいいでしょう。
     しかし、「我」の生命はもともと不自由です。それでいいのです。それが「手かせ」という幸せの原理です。束縛を受けないと頑張っても、空気を吸い、食べ物を食べないと生きていけません。生きるということに束縛されているのですが、束縛されないのも自由です。死ねば良いのです。しかし、「我」は個を維持するためのものですから、そういうわけにはいきません。全く不自由です。他から束縛を受けまくります。それがあたりまえなのです。
    「我」とはそんなものです。しかし、人間は「我」以外の存在でもあるのです。そこは、何の束縛も受けません。

    従って「『妙法』とは『我』の事で、自我の生命が自由自在で他から何の束縛も受けないことです。」は、少し、意味がよく分かりませんので、もう少し、説明をお願いします。

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    すなわち、何ものにも惑わされない円満で強靭(きょうじん)な主体性をいいます。
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    「我」は空気がなければ、葬り去られますから、強靭な主体性があれば有るほど、そのような条件に惑わされます。
    そこに「法」が道筋を示し、その世界だけではなく、涅槃を見せるのです。涅槃に向かう智慧は菩提です。
    その仏我を合わせて生きているのが人間です。そして、仏(ぶつ)に強靭な主体性があれば、「我」はそれと共に人生を生きていくのです。

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    『蓮華』とは『浄』の事で、煩悩のけがれのない清浄な命のことです。
    すなわち、何ものにも染まることのない清浄な生命をいいます。
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     蓮華とは蓮の花のことです。泥の中から、美しい花を咲かせるあの蓮です。例えば、「浄」のところだけをとらえてみると、般若心経の「不垢不浄」が蓮華の姿です。従って「浄」ではありません。花だけを見て清らかでもなく、泥だけを見て汚れているもなく、即ち、「不垢不浄」の蓮の花はただそこに存在する、又存在しないかも知れない。この摩訶不思議な蓮華の姿のような素晴らしい経典が、おお、なんと不思議な法を説く、蓮華のような、経典なのだろう。これが「南無妙法蓮華経」の意味です。それだけのことです。しかし、蓮華という蓮の花の存在は宇宙を超えて無始無終を描いています。これが蓮華です。

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    『経』とは『常』の事で、仏の境地・涅槃が永遠に不変不改であることです。
    すなわち、くずされることのない自由自在の生命活動をいいます。
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    「経」とは人間の我を横糸とみて、それに縦糸を通して一枚の布を造り上げるための縦糸です。すなわち、「経」ということは人間を完全な状態に編み込んでいこうとするための要素です。「経」にて布ができあがれば、いいのです。布は完全な一枚の完成物ですから、生きている人間として完全に生きる姿です。即ち、ただ生きている。そしてただ死んでいく。それだけのことが分かるだけのことを縦糸として織り込んでいくから「経」なのです。その布で何を包もうが、又敷物にしようが、服を作ろうが「我」の思い通りでやれば良いのです。しかし、布です。「常」はその布の長さを測る単位です。すなわち、ある制限を持たせることを「常」といいます。そうすると、それなりの長さの布しか作れません。従って、「経」が「常」であるとなると、その「経」は単なる框になります。即ち枠です。常識という言葉は、その枠を認識する事です。常識に囚われ生きることが果たして人間の幸せでしょうか?生きているだけで幸せのはずでは?生きているというのも枠ですが「経」はそれを超えた永遠不変の世界、涅槃へ導くものですから、「常」であると制限がうまれます。多くの宗教はこの枠を独自の価値基準として備え、独自性を持たせ、信者を獲得しているようですがそれは縦糸としていかがなものでしょうか?

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    御本尊様を頑なに信じて、南無妙法蓮華経と唱えると、私たちの命の中には、「仏界(ぶっかい)」という、えもいわれぬ清々しい命が沸き起こってくるのが感じられます。
    つまり、どのようなことにも、けっして揺らぐことのない安穏な境界、それが真実の幸福(幸せ)なのです。
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     ここからは質問です。ご本尊様とは何でしょうか。それを頑なに信じるとは、何を信じるのでしょうか?今生きていることが幸せなら、生きているということだけを信じれば、それでいいのでは?そして死ぬということも多くの人が死んでいるので信じることができるはずです。幸せであるために、これ以外の何を頑なに信じる必要がありますか?
     私にお金をくれるといえば、信じたいですが、頑なには信じません。そして欲しますが、必要ではありません。生きていることは信じます。これも頑なではありません。そんなことをいっている次の瞬間に死が訪れるかも知れません。しかし、死ぬことも頑なに信じません。この刹那の次も生きていたいからです。蓮華のように、泥の中に咲いている美しい花。何も信じなくても、ただ咲いています。泥の中に。そして咲く前は、花は有りませんでした。しかし、地中には蓮根がありました。そして、その後も、花はなくなり、蓮根だけになり、蓮根も泥も沼も無くなるかも知れません。何も信じなくて良いのですが、この絶対的な世界、即ち「仏が体現した尊極の境涯」を信じるようになれば、思い出せれば良いだけの話です。「頑なに」、これは条件です。

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    ここで『幸せ』を『功徳』に置き換えてみました。『功徳』とは、世間法(国語辞典)では『現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行。御利益 (ごりやく) 。』の事であります。
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    『功徳』は何かをしないと得られないのですか?。ただ「生きていること自体が楽しいという絶対の幸福感」のことが楽とは言っていませんでしたか。生きていなければ、幸福ではないということにもなりますが、ここは少し矛盾があるようですので、説明をもう少しお願いします。

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    しかし、日蓮正宗でいう功徳とは、現世利益のことではなく、「積功累徳(しゃっくるいとく)」、「功能福徳(くのうふくとく)」のことをいいます。積功累徳とは、功を積み徳を重ねることです。功能とは、原因となって結果を引き起こすことです。福徳とは、善い行いをすることにより善い報いを受けることです。
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    例えば、良い行いとは何でしょうか?例を挙げて、一つ教えてください。そして良い報いとは、これもお願いします。

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    つまり、何ものにも脅かされない安心立命の境界の確立と、生命の浄化、そして物心両面にわたって福徳に満ちた人生を築くことが、妙法信仰の功徳なので御座います。
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    世の中のあらゆる現象は、我に対して縁をたたみ込んできます。「脅」ですね。これは「我」が人間の数、森羅万象の数この世に存在するからです。だから、この脅威はあたりまえです。いくら頑張っても、すでに脅威の中で生きているのが人間です。それを楽しめば良いだけです。それが生きているだけで幸せという、人間という条件を持った限りの幸福です。「脅」を排除していては、人間を止めるしか有りません。人間を止めれば、人間としてその「脅」にまみれることはありません。しかし人間です。このあたりはどう思いますか?「脅」の中にあっても、安心立命なのが人間としての境地です。しかし、我は個に拘ります。そうでない絶対的な世界を主にして生きれば、いずれそこに戻るだけです。そこから来たし、生きている間もそこから離れていません。しかし忘れてしまっている。思い出せば、元々、我とその世界は一体であることを知って生きる。それだけのことです。涅槃は死後、生前に有るのでは無く、今生きているこの時にも私たちが生きている世界です。蓮の花が、自分の美しさに見とれ、それが全てだと思い、「不垢不浄」の実相を忘れ、あたりまえにある「脅」、即ち、泥を忌み嫌う。だから「脅かされない」と頑張る。これが本当に人の幸せでしょうか?

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    いつの日か、ご一緒に日蓮正宗総本山大石寺へ参拝できます様、心より御祈念を致しております。
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    色々書きましたが、私の言っていることはどんどん否定するなり批判するなり、意見を述べてください。何を言われても不機嫌になることはありません。今後ともよろしくお願いいたします。
    (言葉を話すのと同じスピードによる、自動書記に近い、手記法で書いていますので、誤字脱字がありましたらお詫びいたします。指摘してください?又説明不足はいくらでも補足しますので、それも聞いて下さい)

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    平成29年3月吉日
    切通 正義
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  3. 新しいメッセージを頂きありがとうございます。以下にコメントします。****************************************************************************************************
    仏祖三宝尊(仏法僧の三宝)に、皆様のご健康とご多幸を心より御祈念させて戴きました。
    宝淨寺第2回支部総登山は4月22日(土)です。
    是非とも御一緒に参拝しましょう。真実の幸福が待っています。
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    真実の幸福とは、前述されていた、「生きていること自体が楽しいという絶対の幸福感」でいいですか?それが待っているのですか、今私はここで生きていますが、どういうことでしょうか?生きていること自体はもちろん楽しく、やむなく死ぬもありのままの姿だと思っています。

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    日蓮正宗総本山大石寺(本門戒壇の大御本尊様)に向かって御題目(南無妙法蓮華経)を真剣に唱えれば祈りが必ず叶います。
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    何を祈るのでしょうか。幸福ですか?祈らずとも、生きています。そして死ぬときには死にます。しかし、生きたい、美味しいものを食べたい、宝くじに当たりたいと祈ります。そんな祈りが叶うのですか?叶うならうれしいですが、そんなものは無常です。無常のことに拘りませんから、祈っても良いですが、優先順位はずっと下です。しかし、叶わなくても生きているから幸せです。そして死んでもあたりまえの姿です。

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    しかし、本門戒壇の大御本尊様への絶対的な確信がなければ祈りは叶わず、少しでも気持ちに不信や疑い怠慢があると絶対に叶いません。日蓮大聖人様は本門戒壇の大御本尊様を信じる心によって祈りが成就することを御教示です。
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    本門戒壇の大御本尊様への絶対的な確信とは、どのようなものでしょうか?

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    本門戒壇の大御本尊様に祈るときに大事なことを日蓮大聖人様は、よき師である日蓮大聖人様をはじめ御歴代上人、よき檀那である日蓮正宗の法華講員、よき法である本門戒壇の大御本尊様の三つが寄り合って祈ることが大事であり成就すると御指南です。
    その三つが寄り合って祈るところ日蓮大聖人様が『聖愚問答抄』に、「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」(御書四〇六㌻)と仰せのように、本門戒壇の大御本尊様を疑うことなく信じ祈るところに我々の過去遠々劫の罪障消滅と福徳(御仏智)を積むことができるので御座います。
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    このような、三大秘法は宗教のメソッドでしょうからそれはそれで、各宗派の固定価値だと思いますが、この差別化で世界中の宗教が成り立っている一面もあるようです。しかし、全ての普遍性を説いて進む道も仏教の本道にはあるはずです。
    このような形はそれなりに意味があるのは、フィードバックとして、結果から原因を知るものでもあるとおもいます。
    例えば、真心を形で表す儒教などの「礼」はその形を行う事で、真心にある仁愛を知るためにあります。その仁愛が本質です。人のは、罪障が有ると言いますが、生きて他のものの命を奪って、生き物を殺さないと言いながら、足元のダニを踏み殺しているのも知らず、知ったとしても、知っていれば殺さないといい、自己弁護して生きているのが人間です。悟りを開くために、妨げになるものなど何もありません。煩悩即菩薩とあるとおり、罪はありのままに人間に存在し、それがあるから、その対岸の彼岸があるのです。即ち、煩悩がなくなれば、彼岸もありません。この双方を併せ持っている人間が人間で、彼岸に達したら、しっかりと煩悩という彼岸が見えるだけです。その双方が有るもないも、そんなこと一切関係の無い世界が涅槃です。「不垢不浄」という蓮華の精神は、泥を罪、花を徳としてみる、全体的な真理です。蓮華で説明したとおり、そんなものさえ相対性であるとして、絶対性を説くのが「不垢不浄」です。即ち蓮華です。
    仏教は多くの方便を利用して、人を真理に導く道です。三大秘法に拘るのでは無く、あくまで方便とするなら、心理に向かう道をそれらに含んで、人に教えを説かれることを望みます。

    1. 切通さんから

      こんにちは。
      毎々御丁重なる御返事を有難う御座います。
      素より浅学菲才の身ではございますが、若林政樹様より頂戴した御言葉を真摯に受け止めたい所存で御座います。何卒、今後とも、お見知り置きの程、宜しくお願い申し上げます。
      尚、種種の御質問につきましては難問である為、御一緒に日蓮正宗宝淨寺(東京都大田区)へ参詣して、御僧侶にお尋ねしたいと存じますが、いかがでしょうか。

      さて本日は僭越ながら、禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)の破折資料をお届け致します。
      不躾に失礼を承知で申し上げております。
      是非お時間のあられます時に、冷静な目で御熟読をお願い申し上げます。

      現在日本では、禅系の宗派として「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」の三宗があり、これらを総称して「禅宗」と呼んでいます。
       禅宗では、仏の悟りを「月」に、経典を「月を差す指」に譬え、仏の悟り(月)を得た後は、経典(月を指す指)は必要ないとし、その教義は達磨の「教外別伝・不立文字」「直指人心・見性成仏」に代表されます。「教外別伝・不立文字」とは、釈尊の教えの真意は文字などで表現できるものではなく、以心伝心といって、経典とは別に心より心へと伝えられるというものです。直指人心・見性成仏とは、教経を用いずに坐禅の修行によって自分の心を見つめ、自己の本性が仏そのものであると知ることをいいます。
       禅宗では「教外別伝・不立文字」と主張しているにもかかわらず、本尊と所依の経典を定めています。本尊は、釈迦牟尼仏・大日如来・薬師如来・観世音菩薩を中心として、宗派によってそれぞれ異なったものを立て、一定していません。また、所依の経典も『金剛般若経』『楞厳呪』『観音経』等で、宗派によって様々であります。
       禅宗では、釈尊の一代聖教には真実を顕さず、真実の法は釈尊が迦葉一人に、一代の教えのほかに別に伝えたといいます。しかし、釈尊の涅槃のときには、迦葉はその場にいなかったのであります。ゆえに、釈尊が華を拈んで迦葉尊者一人が笑みを浮かべたという事実はなく、禅宗でよく言う「拈華微笑」とは、まったく根拠のない作り話であります。
       また「教外別伝・不立文字」と説き、仏の真意は文字を立てず心から心へ伝わるというが、「教外別伝・不立文字」と仏が説いたこと自体が教えであり、言葉であり、文字として残っているではないでしょうか。不立文字とは文字を立てないことでありますから、当然、経典等は用いないことになりますのに、その根拠を『大梵天王問仏決疑経』の経文に依るとは自語相違でありましょう。
       しかも依経としている『大梵天王問仏決疑経』は、大蔵経の古録である『貞元釈教録』『開元釈教録』にもその存在はなく、古来より偽経として扱われているのであります。
       また、達磨は『楞伽経』を註釈した書物を作り、第二祖慧可に禅の法を伝えたとしていますが、これもまた「不立文字・以心伝心」の禅宗の教えに自語相違しています。
        一代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は、『涅槃経』の、「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属なり」と説かれるように天魔の所業といわざるをえません。
       さらに「直指人心・見性成仏」といい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとします。たしかに衆生はすべて仏ともいえますが、それは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずることはできません。だからこそ釈尊は『涅槃経』に、「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでない、と誡められているのであります。完全無欠の仏を蔑ろにし、「是心即仏・即身是仏」などと凡夫の愚癡無慚の心をもって、「我が心を観じることによって仏となる」という禅宗の教えは、随分と増上慢な教えと言えましょう。
      (※日蓮正宗寺院教学研鑽資料より)

       若林政樹様におかれましては、是非とも宗教の正邪を真剣に考えられ、いづれ御一緒に日蓮正宗寺院へ参詣させて戴きましょう。

  4. こんにちは。
    毎々御丁重なる御返事を有難う御座います。
    素より浅学菲才の身ではございますが、若林政樹様より頂戴した御言葉を真摯に受け止めたい所存で御座います。何卒、今後とも、お見知り置きの程、宜しくお願い申し上げます。
    尚、種種の御質問につきましては難問である為、御一緒に日蓮正宗宝淨寺(東京都大田区)へ参詣して、御僧侶にお尋ねしたいと存じますが、いかがでしょうか。
    ****************************************************************************************************
    そのような機会をいただけるとは、楽しみです。是非お願いします。
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    さて本日は僭越ながら、禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)の破折資料をお届け致します。
    不躾に失礼を承知で申し上げております。
    是非お時間のあられます時に、冷静な目で御熟読をお願い申し上げます。
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    冷静な目をとはどのようなものでしょうか?冷たく静かだけでなく、温かくて動く目も持ち合わせているのが人間です。冷静だけに偏るのでは無く、ありとあらゆるものを受け入れる目で読ませて頂きます。受け入れるとは迎合では無く受容です。念のため。私の目には温かくて動きもあります。その彼岸には冷たくて静かな世界もあります。その両岸があってこそ、完全なものになるのです。冷静という偏った目で見ることはできません。両目があるのであしからず(比喩です。)従って、二つの目で見える、ありのままあたりまえに読ませて頂きます。
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    現在日本では、禅系の宗派として「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」の三宗があり、これらを総称して「禅宗」と呼んでいます。
     禅宗では、仏の悟りを「月」に、経典を「月を差す指」に譬え、仏の悟り(月)を得た後は、経典(月を指す指)は必要ないとし、
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    そんなこといっているのですか。これしかいっていないのですか?ここだけ、抜き出したのでは無く?この文言の彼岸が無いというのであればいいますが、悟りを得た後もその指は必要です。それはなぜかわかりますか?色々ありますが、例えば、その指は、人に悟りへの道を指さすために使えます。しかし、般若心経を読むと、禅宗は、そのようなことを排除しているとは思えません。般若心経では、悟りの後に、人々を涅槃に連れて行こう、この般若心経を使ってとあります。これが指です。そして全てを連れて行けたら、般若心経を終わる、即ち必要ないと言っています。どちらにしても、誰が言っている、経典にどう書いているなど、その人の解釈次第です。私は、禅宗の信者でも、拠り所にもしていませんから、私が独自に勝手に解釈していますので、そうでないならそれでも結構です。ここでは、切通さんの解釈に沿って話をします。
    しかし、このような言葉の表層は虚仮で無常です。本質はそれを述べる人の心意です。この言葉を述べる人に私は心意を問います。月の話をした人は、もう亡くなっているのですか?そうであれば、後はこの言葉を引用する人の解釈です。この解釈をしている切通さんは、私と今話をしていますから、この解釈にある本質を切通さんに求めることになります。それだけのことです。切通さんはこういう解釈なのですね。
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    その教義は達磨の「教外別伝・不立文字」「直指人心・見性成仏」に代表されます。「教外別伝・不立文字」とは、釈尊の教えの真意は文字などで表現できるものではなく、以心伝心といって、経典とは別に心より心へと伝えられるというものです。
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    そうですね。しかし、心は文字を生み、言葉を生み、行為を生み、あらゆる現象を生みます。従って、そのようなものにも心があり、それらが多くの事を伝えていきますから、経典とは別に心より心へと伝えられるとは限りません。****************************************************************************************************
    直指人心・見性成仏とは、教経を用いずに坐禅の修行によって自分の心を見つめ、自己の本性が仏そのものであると知ることをいいます。
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    そうですね。しかし、教経を用いてもいいし、用いなくても、そんな外見や現象、即ち外側だけでなく、その本質が大切なのです。
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     禅宗では「教外別伝・不立文字」と主張しているにもかかわらず、本尊と所依の経典を定めています。
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    文字が必要ないだけでなく、経典も本尊もあるのですね。そのようなメソッドなのですね。なるほど。だから?ですね。
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    本尊は、釈迦牟尼仏・大日如来・薬師如来・観世音菩薩を中心として、宗派によってそれぞれ異なったものを立て、一定していません。また、所依の経典も『金剛般若経』『楞厳呪』『観音経』等で、宗派によって様々であります。
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    そんなんですか、聞いても忘れてしまいますが、難しい漢字ばかりですね。
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     禅宗では、釈尊の一代聖教には真実を顕さず、真実の法は釈尊が迦葉一人に、一代の教えのほかに別に伝えたといいます。
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    顕さなかったのか、顕せなかったのか、伝えたのか、伝えることができなかったのか、言葉の本質には何があるか見極めることです。これは釈尊に会うしか有りません。しかし、もう居ません。だからこの言葉も、全てこの言葉を解釈する人の価値観によって決まります。この世界感はコスモスという宇宙です。その人の世界が、この釈尊の逸話を見ているのです。それだけのことです。後はその人に、その本質を問います。今は切通さんです。
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    しかし、釈尊の涅槃のときには、迦葉はその場にいなかったのであります。
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    ありますと言い切っていますが、切通さんはその場面を見たのですか?正しくは「その場所にいなかった」という説がありますです。いかがですか?見てもいないのに有りますとは、そのように言い切る根拠は?誰かの言い伝えですか?その人が本当のことを言っているという根拠は、それとも切通さんがそう思い込みただけですか?そうであれば、それはなぜ、例えば、何かに都合が良いからですか?教えてください。
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    ゆえに、釈尊が華を拈んで迦葉尊者一人が笑みを浮かべたという事実はなく、禅宗でよく言う「{拈華微笑}」とは、まったく根拠のない作り話であります。
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     作り話か作り話でないかはさておき、このような逸話の本質は、その意味にあります。表層に起こる現象をさておき、本質を通じ合う、これは儒教などにもある「忠」の理念です。それを選び取ったのが「忠義」ですから、これが作り話としてもは、とても人にこれらの事を伝えるにはよく作られたものだと思います。作り話でも作り話でなくても全く関係ありません。なんなら作り話ですと公表しても十分いい話です。このように、どうでも良いことをなぜ、私に説明をしようとするのかも、聞かせてみて下さい。それと、作り話ですと言い切る根拠を知りたいですね、後学のために、是非教えてください。これを言い切れるのは、相当しっかりした根拠があるのでしょうね。前文と同じく、そのように言い切る根拠は?誰かの言い伝えですか?その人が本当のことを言っているという根拠は、それとも切通さんがそう思い込みただけですか?そうであれば、それはなぜ、例えば、何かに都合が良いからですか?教えてください。
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     また「教外別伝・不立文字」と説き、仏の真意は文字を立てず心から心へ伝わるというが、「教外別伝・不立文字」と仏が説いたこと自体が教えであり、言葉であり、文字として残っているではないでしょうか。
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    そうですね。だからなんでしょうか?どちらにしても、禅宗は結構柔軟な宗派なんだなと、切通さんの話を聞く限りでは、そう見えますが、私は、私が独自に禅宗を解釈します。しかし、解釈する必要は今はありませんから、優先順位はずっと下ですが。
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    不立文字とは文字を立てないことでありますから、当然、経典等は用いないことになりますのに、その根拠を『大梵天王問仏決疑経』の経文に依るとは自語相違でありましょう。
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     不立文字と大梵天王問仏決疑経、この相反するものを取り入れているのですね。それなら、素晴らしいと思いますが、これも私が解釈します。前文の通りです。しかし、このように拘らない、これこそ、仏教の目指す道です。経典は用いても良いし、用いなくても言い、そんなことどうでも良いことです。そう思いませんか?大切なのは本質です。言葉も経典もその本質にかかっています。心も、表層に現れたものなど、ほんの一部です。その奥にある、深層心を自分で知れば、その本質も分かります。
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     しかも依経としている『大梵天王問仏決疑経』は、大蔵経の古録である『貞元釈教録』『開元釈教録』にもその存在はなく、古来より偽経として扱われているのであります。
     また、達磨は『楞伽経』を註釈した書物を作り、第二祖慧可に禅の法を伝えたとしていますが、これもまた「不立文字・以心伝心」の禅宗の教えに自語相違しています。
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    禅宗とはそういう偏った考えを持っていると切通さんは解釈、又は誰かが解釈しているのですね。どちらにしても、そのように経典だ、心だなどなど、切通さんは表層に現れるものに拘り大変ですね。切通さんもそういうことに拘りたいから、ここまで禅宗のことを指摘するのですね。それもいいでしょう。禅宗という宗派の中には色々な人がいます、切通さんが言うような偏った考えを持っている無明な人も、もっと、真理を知っている人もいます。確かに宗教には、切通さんのように外側にばかり、目に見えることばかりに拘る人が多いですね。そんなことは無常ですので、私にはどうでも良いですが、面と向かってこのように会話をするなら、その人の本質、即ち心意を問います。その人が、どのような宗派であろうが関係ありません。日蓮正宗にも素晴らしい人は多くいると思います。まだ会ったことはありませんが、表層に現れるものがどのようなものであろうが、見る人によってそれは違うのです、全ては人の徳に依るのです。それはわかりますか?
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      一代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は、『涅槃経』の、「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属なり」と説かれるように天魔の所業といわざるをえません。
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    禅宗に対して、凄い偏見をお持ちのようですが、私もそう思う禅宗の人もいますから、しかし、それは禅宗では無く、その人にのみです。禅宗とは関係ありません。もちろん日蓮正宗も関係ありません。
    様々な解釈は、その人の色眼鏡でもあります。そのような色眼鏡を持って見るのもその人の自由ですが、私はその同じ色眼鏡を持っていません。いや、同じ人間ですから持っていますが、使用しません。彼岸を知っているからです。それだけのことです。禅宗を評価する意味は、その宗派の自由ですから勝手にやってくれればと思いますが、私と話をする場合は、その人と話します。禅宗や日蓮正宗など一切関係ありません。人と人の一期一会の縁です。そこには、その人の人生全てがあります。それほど人生は荘厳です。思想や宗教それは自由です。しかし、話し合っているときは、真心どおしが交わります。表層や、人の評価、様々な文献に拘らず、自分の目で心で真実を見極めて、自分の心でお話し下さいね。
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     さらに「直指人心・見性成仏」といい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとします。たしかに衆生はすべて仏ともいえますが、それは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。
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     実際の仏とは何ですか?私は知っていますが、切通さんが言っているのですから、是非、実際の仏と思われるものを教えてください。又、理論上の仏とはどのようなものですか、理論上なら仏ではないですよね。単なる理論です。仏とは理論でも存在するのですか?私はそんな仏知りません。
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    三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずることはできません。
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     人間なら、迷いの心があるから、迷わない心がある。迷いの心が無ければ、迷わない心など無いのでは?というかんがえもありますから、仏心を観ずる可能性はあるのでは?仏心を観ずることはできませんと言い切る根拠を教えてください。
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    だからこそ釈尊は『涅槃経』に、「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでない、と誡められているのであります。
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    そりゃそうです。あたりまえじゃないですか。師匠がその心を見つめるのですから、迷いの心が師匠であるはずが有りませんね。迷いの心が迷いの心を見つめるのですか、迷っているのに?。人間は仏心があります。その仏心が、迷う凡夫を導くのです。その手助けをするのが宗教だと思いますがいかがですか?
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    完全無欠の仏を蔑ろにし、「是心即仏・即身是仏」などと凡夫の愚癡無慚の心をもって、「我が心を観じることによって仏となる」という禅宗の教えは、随分と増上慢な教えと言えましょう。
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     仏は人間の心の一面です。そうでないというのなら、私は仏という言葉を使いません。だいたい、仏教の仏という概念、西洋の神という概念は多様すぎます。心もそうです。
     そこで、言っておきます。人間には森羅万象と通じる、ヒトノゲムに蓄えられた情報があります。これは科学で解明されています。私はそれを「心」の片方、それを処理する働きを「意」の片方と考えます。これは太極思想でも同じです。大脳生理学でも精神医学でも同じです。この情報は、人間が素粒子であった頃から、今までの最もこの世で安定した生命を維持する方法を蓄えています。これも科学で証明されています。これは私の確信ですからこれをどう言われても変わりませんが、これが仏心と言われているような「心」の片方です。これは膨大な情報です。太極思想では先天の性と言います。そして、この世に人間が生まれて、この世の中をうまく生きていくために、本能を抑制したり、社会規範や知識を得て、自分の個を維持するためにうまく生きていきます。自我や超自我です。これも科学ではあたりまえです。しかし、この情報は微細な情報です。この情報に頼っていると人間は安定して生きていけません。当然そうでしょう、我が優先されるからです。我は、個を維持するための機能です。生まれてからは、この機能が優先されます。あたりまえですね。
    しかし、仏心と言われるその膨大な悠久の情報に繋がればいかがでしょうか、そしてそれを主体にして人生を楽しむことができればいかがでしょうか。科学だけの話をしましたが、科学や宗教や思想には全て普遍性があります。その普遍性をみつめていくことこそ、宗教を広めるなら忘れて欲しくないことです。

     色々と、宗教のことを教えてくださいますが、それよりも、切通さんが口に出した言葉を説明もできず、御僧侶におたずねしてくださいとはいかがなものでしょうか。あまりにも無責任極まり有りませんね。そのような責任のない言葉を切通さんは吐いたのですか?それをメッセージとしてよこしたのですか。御僧侶に合うのは楽しそうですので、是非会いたいですが、まず、切通さんの口に出した言葉を責任を持って私の問いに説明してください。私は御僧侶と話をしたのでは有りません。あまりにも無責任です。切通さんは僧侶なんですよね。そのような自分の出した言葉すら、責任をもって処理できないような方なんですか?それはちょっと問題ですね。切通さんが出した言葉は、切通さんから説明を聞きます。御僧侶とは、御僧侶の心と話をします。�これが分からなければ、切通さんは僧侶としてどころか、人間としても心が迷っているといわざるを得ません。
    まず、自分の言葉を大切にしてください。自分が出した言葉です、切通さんの子供のようなものです。そのへんに放り出さず、他人に委ねず、自分の大切な言葉くらい責任を持ってください。とても残念です。そんなことをしていたら、嘘つきの魑魅魍魎の政治家以下ですよ。政治家でもそんなことしません、私が出した言葉、その意味、妻に聞いて下さいですか?本当に、恥ずかしくはありませんか?
     まず、前回の私の質問にぜひお答えください。御僧侶に会いたいですが、それからです。御僧侶に早く会いたいので、問いに対する答えを切通さんの口で早くお願いします。
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    (※日蓮正宗寺院教学研鑽資料より)

     若林政樹様におかれましては、是非とも宗教の正邪を真剣に考えられ、いづれ御一緒に日蓮正宗寺院へ参詣させて戴きましょう
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     宗教の正邪など、そんなことは双方の価値観次第です。自我の迷いが生じているだけです。日陰と日向は人の目によってどのようにもうつろいます。世界中の宗教戦争は全てこの人の心の迷いから来ています。大切なのは、その人の心です。宗教においても政治においても、全ては人の心の徳にかかっています。切通さんは、もう一度原点に返って、自分を見つめ直す必要があると思います。あまりにも愚かです。愚かなことを具体的に説明もできますが、その前にまず、私の質問に答えて頂きたいと思います。

  5. 大切なところ書き間違えていました。後編の最初の部分です。「顕さなかったのか、顕せなかったのか、伝えたのか、伝えることができなかったのか、言葉の本質には何があるか見極めることです。」は、正しくは「顕さなかったのか、顕せなかったのか、伝えたのか、他の人に伝えることができなかったため、結果的に一人にしか伝えられなかったのか、他にも色々と本質がある思います。どちらにしても言葉の本質には何があるか見極めることです。」です。よろしく。

  6. 参詣して、御僧侶にとありますが、参詣ではなく、御僧侶とお話をさせて頂くと言うことですよね。確認です。その時は、アポイントそして時間をちゃんと設定して下さいね。こちらから伺うのでは無く、どこかでお会いしても良いですよ。しっかり私との時間を持って下さい。よろしくお願いします。参詣などしませんよ。念を押しておきます。参詣みたいなものよりも優先順位が高いことがたくさん有ります?子供と遊ぶとかです。よろしくお願いします。今まで京都や全国の多くのお寺の僧侶や、キリスト教の牧師、様々な宗派のかた、学者や政治家、などなど多くの人と話してきましたが、ここ20年くらいご無沙汰でしたので、凄く楽しみです。よろしくお願いします。二時間は欲しいですね。

  7. それと、違和感を感じるところがもう一つあるので質問させて下さい。なぜ、わざわざ、私のコメントに対しての返信に、色々と宗派があるのに、禅宗(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)の破折資料を提出されたのですか?

  8. 破折資料などがあるのですね。破折とは教義解釈などの誤りを指摘することですが、原義は外からの力であるものを砕け折ることですから、仏教同士も殺伐としているのですね。これが今の宗教なんですね。これで人を導けるのですか?本当に残念です。

  9. ヨハネパウロ2世は、ウィキペディアによると「宗教間の問題に温和な態度で臨み、他宗教や文化との対話を呼びかけたことは宗教の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、多くの信者・宗教関係者から尊敬されている。」と書かれていて、これが事実だとすれば、宗教を志される方には、このようなことを是非見習ってほしいものです。

    1. 切通さんから

      「ご投稿を有難う御座います。
      恐縮ながら小生、僧侶では御座いません。
      何卒、今後とも、お見知り置きの程、宜しくお願い申し上げます。」

      1. 僧侶の方では無かったのですね、それは失礼しました。いただいたメッセージ熱心に読ませていただき、熱心にコメントと質問をさせて頂きました。お返事をいまかいまかとお待ちしています。こちらこそよろしくお願いいたします。それと御僧侶にお会いするのも楽しみです。是非私のお家にも遊びに来て下さい。

        1. 切通さんから

          「誠に甚深なるmessengerを頂戴して、恐悦至極に存じ上げております。
          本日にはmessengerをさせて戴きます。
          どうぞ宜しくお願い申し上げます。」

  10. 切通さんから

    「こんばんは。お世話になります。
    夜分に恐れ入ります。
    度々の御丁重なる御返事に恐縮を致しております。

    さて若林政樹様のプロフィールの好きな言葉に【行雲流水】と御座いました。
    行雲流水とは、故事ことわざ辞典によりますと『空行く雲や流れる水の行方が定めないという意味から、諸国を行脚する僧(特に禅宗の僧)をさしていう。』などとなっております。
    そこで小生と致しまして、参考資料にと日蓮正宗諸宗破折より禅宗破折資料をお届けしました次第で御座います。

    ところで、もし若林政樹様の御都合が宜しければの話なのですが、3月18日(土)19時より、小生の実家(蒲田警察署前)にて、御僧侶を招いての座談会が御座いますので御案内させて戴きます。また実家近くに宝淨寺が御座います。御本尊様を御見学する事も可能です。
    併せて御案内いたします。
    どうぞ宜しくお願い申し上げます。」

    1. こんばんは。お世話になります。
      夜分に恐れ入ります。
      度々の御丁重なる御返事に恐縮を致しております。

      さて若林政樹様のプロフィールの好きな言葉に【行雲流水】と御座いました。
      行雲流水とは、故事ことわざ辞典によりますと『空行く雲や流れる水の行方が定めないという意味から、諸国を行脚する僧(特に禅宗の僧)をさしていう。』などとなっております。
      そこで小生と致しまして、参考資料にと日蓮正宗諸宗破折より禅宗破折資料をお届けしました次第で御座います。
      *****************************************************
       私の解釈及び、世間一般の意味は「空をゆく雲と川を流れる水のように、無為自然であることです」。私が、そのような僧が好きと言うことですか?一体、何を言っているのですか?そのような的違いの解釈を採用された上に、私が出している言葉であるのに、その解釈を私の行為の本質にすげ替えたのですね。これは酷いですね。私に確認する事も無く。いつも誰にでもこんなことをしているのですか?それとも、これが、日蓮正宗の教えなんですか?それとも、切通さんの心の歪みから来るものですか?愚かさですか?なぜこのようなことをするのか、理由を教えてください。
       このように人の言葉を自分の価値観のみで取り上げ、それで行為を起こす。自分の解釈が全てであり、その上での行為が妥当であるという、我への執着が起こして、人の行為とその本質を葬り去る「我慢」という煩悩です。北朝鮮などの施政者もそうですね。違いますか?
       さて、この「我慢」によって切通さんが行為を起こしたのですが、なぜ、そのような解釈をしたから、私に、「参考資料にと日蓮正宗諸宗破折より禅宗破折資料をお届けしました」なのですか?
      そこに、「想」、即ち切通さんの想いと、その後の思考があります。それを教えてください。
      切通さんが勝手にそうだと解釈しても、別にそのような資料を送る必要が分かりません。教えてください。しかし、この質問よりも前に、たくさん質問しているはずですから、そちらがまず先では?
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      ところで、もし若林政樹様の御都合が宜しければの話なのですが、3月18日(土)19時より、小生の実家(蒲田警察署前)にて、御僧侶を招いての座談会が御座いますので御案内させて戴きます。また実家近くに宝淨寺が御座います。御本尊様を御見学する事も可能です。
      併せて御案内いたします。
      どうぞ宜しくお願い申し上げます。
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      座談会ですか?そこそこ(通常、○十万程度です)の出座料をもらえるならいきます。そして、そこで、私が発言する時間をたっぷりいただきます。都合など、自分がやりたい又は行きたいところが最優先ですから、ありません。
      宝淨寺も行きますが、御僧侶と私の話す時間を2時間ほどいただくのが条件です。不誠実な煩悩まみれの愚かな切通さんの勧める御僧侶ですから、少し私の中で優先順位が下がってきましたので、そちらからの提案ですので、本来は御僧侶がこちらに会いに来るべきですが、しかし、御僧侶には責任はありませんので、対等の立場と言うことで、我が家と宝淨寺の中間場所を設定してください。これは、最初、切通さんの質問に御僧侶が答えるとして提案されたことですね。メッセージを頂いた件は、切通さん自身の答えを聞いてから、御僧侶からも見解を聞きますので、約束どおり設定してください。
      それよりも、まず、私の他の質問と、今回の質問にお答えください。
      一方的に、メッセージを送って、それに質問をしたのには無視ですか?これは一体どういうことですか?
      自分が出した言葉の処理もできないのですか?
      切通さんのところに、公開上で質問した方が良いですか?それなら答えてくれますか。
      お返事ください。

      それと、FaceBookの私のお友達が、「こんにちは。私も切通さんから同じようなメッセージをもらいました。
      以前からチベット仏教迫害について興味があったので日本の仏教人としてどのようなお考えかを返事として質問させていただきました。・・・ご回答はいただきましたが、「前世で悪いことをした結果、今がある」ととれるような内容でした。正直悲しい思いでした」というコメントを頂きましたが、「前世で悪いことをした結果、今がある」という風に思われているのですか?これは切通さんに確認です。もしそうであれば、前世とは何か?そして、なぜ、「前世で悪いことをした結果、今がある」ということになるのかも教えてください。
      *****************************************************

      1. 切通さんから

        『色々とお話しさせてください。いつまでも、私とお話ししてくださることを心から願っています。
        私の言っていることはどんどん否定するなり批判するなり、意見を述べてください。何を言われても不機嫌になることはありません。今後ともよろしくお願いいたします。』(※若林政樹様より)

        こんにちは。
        毎々の甚深なる御返事を有り難く頂戴しております。
        若林政樹様より数々の御質問などを頂戴しておりますが、即答しかねます事を何卒、お許し下さいませ。

        尚、加藤加奈様は、小生の友達であります。加藤加奈様は本日現在、若林政樹様の友達ではない模様です。何卒ご理解の程、宜しくお願い申し上げます。

  11. そのとおりです、どのような意見でも結構ですので、不機嫌になることはありません。即答は結構ですので、できるだけ早く返答だけは下さいね。加藤加奈様は今現在友達ですよ?どこからそんなこと言っているのですか?まあどうおもわれようがそれはどうでもいいですが。事実誤認ですよ。友達かどうかは別として、質問の本質は「前世で悪いことをした結果、今がある」という風に思われているのですか?です。話をはぐらかさないで、こちらの方に答えてください。
    なんのために「『色々とお話しさせてください。いつまでも、私とお話ししてくださることを心から願っています。
    私の言っていることはどんどん否定するなり批判するなり、意見を述べてください。何を言われても不機嫌になることはありません。今後ともよろしくお願いいたします。』(※若林政樹様より)を抜粋してまで、送ってこられたのですか?折角、抜粋されたのですから、「私の言っていることはどんどん否定するなり批判するなり、意見を述べてください。」をできるだけ早くお願いしますね。
    抜粋されて送ってこられたと言うことは、質問へのお答えだけでなく、私の言っていることに否定、批判、意見をもいただけるのですね。確認です。楽しみに、お待ちしています。

  12. 切通さんから

    「こんにちは。
    誠に御丁寧なる御返事、恐悦至極に存じ上げます。
    若林政樹様のご健康とご多幸を心より御祈念させて戴いております。

    小生、日蓮正宗宝淨寺の檀信徒(法華講衆)と致しまして、法燈700年の清流、総本山大石寺において、本門戒壇の大御本尊と唯授一人血脈相承を厳護なされてきた事実を誇りに思い、仏祖三宝尊(仏法僧の三宝)に御報恩感謝を申し上げる次第で御座います。

    ところで、横浜市内には日蓮正宗寺院が7ヶ寺、御座います。【(応顕寺(神奈川区)法運寺(緑区)妙寿寺(鶴見区)久遠寺(南区)大歓寺(旭区)宣法寺(戸塚区)法因寺(都筑区)】
    是非とも最寄りの寺院へ御一緒に御参詣して御授戒を受け、御本尊様に南無妙法蓮華経を唱え、大功徳を積みましょう。

    本日は僭越ながら日蓮正宗の信仰について、少々申し述べさせて戴きます。どうぞお時間のあられます限り、お付き合いくださいませ。

    日蓮正宗の信仰とは【謗法罪障消滅】と【御仏智(智恵)】です。
    大切な願いを成就できる大正法こそ、日蓮大聖人の世界最勝の御本尊様であります。
    日蓮大聖人の御本尊様に具わる仏力・法力・功徳力に敵うものはありません。
    日蓮大聖人は、
    「潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。」(『祈祷抄』新編御書630頁)と仰せです。日蓮正宗法華講(檀信徒)の祈りや願いは必ず成就するとの御金言です。
    過去の「罪障」は信心をすれば完全に消滅させることが出来ます。【※謗法罪障消滅】
    御本尊様に南無妙法蓮華経を唱える事によって、仏様(御本尊様)のお取り計らいがあるのです。【※御仏智】

    いつか必ず若林政樹様と御一緒に日蓮正宗寺院へ参詣できます様、衷心より御祈念させて戴きます。」

    1. こんにちは。
      誠に御丁寧なる御返事、恐悦至極に存じ上げます。
      若林政樹様のご健康とご多幸を心より御祈念させて戴いております。

      小生、日蓮正宗宝淨寺の檀信徒(法華講衆)と致しまして、法燈700年の清流、総本山大石寺において、本門戒壇の大御本尊と唯授一人血脈相承を厳護なされてきた事実を誇りに思い、仏祖三宝尊(仏法僧の三宝)に御報恩感謝を申し上げる次第で御座います。
      ********************************************
      それはそれは、わかりました。
      ********************************************

      ところで、横浜市内には日蓮正宗寺院が7ヶ寺、御座います。【(応顕寺(神奈川区)法運寺(緑区)妙寿寺(鶴見区)久遠寺(南区)大歓寺(旭区)宣法寺(戸塚区)法因寺(都筑区)】
      是非とも最寄りの寺院へ御一緒に御参詣して御授戒を受け、御本尊様に南無妙法蓮華経を唱え、大功徳を積みましょう。
      ********************************************
      大功徳とはなんですか?前回質問差し上げている内容にも書いていましたから、まずそちらをお答え頂いたら、こちらもお願いします。
      ********************************************

      本日は僭越ながら日蓮正宗の信仰について、少々申し述べさせて戴きます。どうぞお時間のあられます限り、お付き合いくださいませ。

      日蓮正宗の信仰とは【謗法罪障消滅】と【御仏智(智恵)】です。
      ********************************************
      そうですか?どんな智恵なんですか?罪障とは具体的になんですか?これも教えてください。
      ********************************************
      大切な願いを成就できる大正法こそ、日蓮大聖人の世界最勝の御本尊様であります。
      ********************************************
      大切な願いとは?世界最勝とは何が世界で最も勝つのですか?勝義の「勝」=最もすぐれた道理のことですか。それならなぜですか?
      ********************************************
      日蓮大聖人の御本尊様に具わる仏力・法力・功徳力に敵うものはありません。
      ********************************************
      どんな仏力・法力・功徳力ですか?それが、御本尊様に具わるのですか。するとどうなるのですか?
      ********************************************

      日蓮大聖人は、
      「潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。」(『祈祷抄』新編御書630頁)と仰せです。日蓮正宗法華講(檀信徒)の祈りや願いは必ず成就するとの御金言です。
      過去の「罪障」は信心をすれば完全に消滅させることが出来ます。【※謗法罪障消滅】
      ********************************************
      生きているだけで完全に幸せであるのに、過去の「罪障」を消滅させる必要があるのですか?それよりも過去の過去の「罪障」とは何ですか?またなぜ、信心をすれば完全に消滅させることが出来るのですか?
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      御本尊様に南無妙法蓮華経を唱える事によって、仏様(御本尊様)のお取り計らいがあるのです。【※御仏智】
      ********************************************
      お取り計らいとはどんなものですか?それが唱える事で得られるのですか?なぜ?
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      いつか必ず若林政樹様と御一緒に日蓮正宗寺院へ参詣できます様、衷心より御祈念させて戴きます。
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      じようは、切通さんが私によこしたメッセージです。その意味に答えられないわけがないですよね。そうだとすれば、単なる宗教広告の伝搬です。宗教広告をこのようにメッセージに見立てて送るのであれば、問題ですね。
      しかし、切通さんの考えで、このメッセージを私に伝え、コミュニケーションを求めるのが趣意であれば、素晴らしいことです。今まで出した言葉、私に伝えたメッセージは、友達として、真摯に処理してくださいね。まず、先に質問したことに答えてください。そして、次にこのあたりの質問にもお願いします。
      若林政樹
      こちらの質問に一切答えず、単にメッセージを送りつけて、人の大事な時間を使って、勝手に自分だけの話を進めていく。こちらの質問には一切無視。このようなことは、SNS倫理的に違反していると思いませんか?これ以上続けると問題ですよ。これは、忠告です。
      質問は答えてくださいね。今までそちらのメッセージに時間を割いたのですから。公開上なら答えてくれますよね。

  13. 切通さんから

    こんにちは。
    毎度、日蓮正宗の資料をお読み戴き誠に有り難く存じ上げております。
    因みにで御座いますが小生、同様のメッセージを約5000名のお友達各位へお届け致しております。
    若林政樹様からの御質問は、全てにおいて難解であられるため、御無礼ながら即答できません。今後も明確なお応えができるか御約束もできません。
    どうかお許し下さいませ。
    しかし私には、日蓮正宗法華講衆(檀信徒)としまして、若林政樹様を日蓮正宗寺院へ導く使命があるのです。

    さて、若林政樹様のプロフィールの宗教観は無記入となっておられます。しかしながら、江戸時代の寺請制度(檀家制度)により、一般的な日本人の御実家には日本の仏教宗派が存在するのです。

    日蓮正宗入門には、
    『江戸幕府は、当初よりキリスト教を禁制し、幕藩体制の強化を目的として既成仏教教団を利用し、本末制度で寺院を統制しつつ、「宗門改め・寺請制度」などによって、民衆を寺院に所属させる檀家制度を確立しました。これによって各宗の寺院が急増したため、幕府は寛永八年(1631)と元禄五年(1692)に「新寺建立禁止の令」を出し、以後「寺院法度」を定め、宗教論争や自讃毀他を禁止するなど、強力に宗教を統制しました。』と書かれております。

    小生と致しましては、若林家様の宗派に大変興味が御座います。この機会に御実家(父方・母方)の宗派を認識なされ、差し支えなければ御教え願いたいと存じ上げております。
    因みにですが小生の場合、父親の実家(父方)が禅宗(曹洞宗)、母親の実家(母方)が真言宗でしたが、昭和35年に両親が結婚して間もなく日蓮正宗の仏法に巡り会い、改宗したという経緯が御座います。

    何卒、今後とも、宜しくお願い申し上げます。

    1. 2才の時に別れた父は、真言宗だったと思います。母は浄土宗だったと思いますが、私も母も宗教に一切信心はありません。それよりも、私の質問は私から下ものでは無く、切通さんの熱せー字の内容を糖ものです。これに答えることができないとは、どういうことですか。意味も知らないこと、質問されても答えられないことをメッセージによこしたのですか、これは答えてください。それと私の独自に発言していることには、意見を述べてください。これはよく分からなければ、私に意味を聞いて下さい説明します。今後も明確なお応えができるか御約束もできません。ですが、それでも結構ですから、友達として話し合いましょう?宗教広告や勧誘でないとするなら。公に話し合うしかなさそうですか?
      若林政樹
      誤字だらけですね。すみません。宗派のことちゃんと答えていますので、なぜこのようなことを聞くかはちゃんと教えてくださいね。自分で聞いているのだから、なぜかは分かるでしょ。「私の質問は私から下ものでは無く、」の下は「した」です。「熱せー字の内容を糖」は「メッセージの内容を問う」です。
      若林政樹
      「しかし私には、日蓮正宗法華講衆(檀信徒)としまして、若林政樹様を日蓮正宗寺院へ導く使命があるのです。」そんなことは、私には関係ありません。切通さんの勝手な自我の行為です。勝手にどうぞ。しかし、切通さんは私に友達申請をされて、友達になり、あなたからメッセージを頂き、人生の一部をそれに当て、熱心に読み、熱心に質問をしているだけです。一期一会の精神で。それをお忘れ無く。
      明確な答えでなくても、自分のメッセージの内容ぐらい説明できるでしょ。私の質問はそれに対してだけですよ。大丈夫ですか?

      1. 切通さんから

        こんにちは。お世話になります。
        小生、正しい日蓮正宗の教義を友人・知人の各位にお届けさせて戴いております。日蓮正宗が素晴らしい事を多くの方達に知って戴きたいからであります。
        また若林政樹様の御先祖の宗派をお尋ね致しましたのは、日蓮正宗の資料をお届けしたいが為で御座います。本日は後ほど真言宗及び浄土(真)宗の破折資料を送信させて戴きたい次第で御座います。

        只今よりは、日蓮正宗総本山第六十七世御隠尊日顕上人猊下が四年前に出版された『妙法七字拝仰』上巻【はじめに】より「南無妙法蓮華経」についての御指南をお届け致します。
        お時間のあられます限り、宜しければ御一読をお願い申し上げます。

        『南無妙法蓮華経は、仏法における根本の仏の悟りであり、また、法と人格とが一体である故に、その仏そのものであるとともに、これを行じられた本仏の功徳の当体でもあります。故に、南無妙法蓮華経には、釈尊の説かれた八万の聖教の意義と三世十万の諸仏菩薩の悟りが具わるとともに、万物の存在の根源を明かす真文であり、一切諸法・一切衆生全体の本質を具えかつ顕しております。故に、すべての人々は、この大法を信じ持つことにより法界の正理に合致するのであります。
        この南無妙法蓮華経を受け持って唱えることを勧められた聖者は、あらゆる宗教・宗旨のなかで、日蓮大聖人ただ御一人であります。故に、日蓮大聖人は『報恩抄』に、
        「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経を唱ふべし。此の事いまだひろまらず(中略)日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声も惜しまず唱ふるなり(中略)日蓮が慈悲広大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(御書一〇三六頁)
        と妙法弘通の大確信を宣言あそばされました。そして、その絶大な信仰の当体として法界のすべてを含み具え、その成仏を示す南無妙法蓮華経を三大秘法の御本尊の中心に表されたのです。
        この御本尊出現の筋道を少々申しますと、釈尊は二千数百年前、インドに出られ、一代五十年の五千巻・七千巻とも言われる経典を説き残されました。これは、真実の教えと、そこから出た方便の教えの全体が余りに厖大なために、仏の付嘱により、解脱堅固、禅定堅固、読誦多聞堅固、多造塔寺堅固の各五百年の時代の機根に適合して、それぞれ小乗・大乗の方便経を述べた仏教家が輩出しました。これは、時代による仏法流伝の筋道に従って、二千年間に釈尊の仏教を正しく伝えた人師であります。しかしまた、これとは別に自己の短見に基づいて権りの教えに執われた多くの仏教家があり、これは仏教の一部のみを取って、自分勝手に宗派を建立しました。しかし、これらの宗派にはすべて、部分に執われて仏教全体の意義に背く咎があります。
        しかるに、天台大師(五三八~五九七)が中国の梁・陳・隋の時代に現れて、一代諸経のなかで法華経が最第一であり、諸経は低い機根の者を導くため、全法界の真理を説く法華経より、その一分一分を取り出して、方便として説いた経々であることを明らかにされました。これは、天台大師が勝手に述べたのではなく、法華経が釈尊の本当の心であることを道理と文証によって証明しております。
        その法華経には、釈尊自らの言として、
        「此の経の中に於て 法華最も第一なり(中略)已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」(法華経三二五頁)
        と言われ、また、
        「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」(同三九九頁)
        さらに、
        「此の法華経も、亦復是の如し。諸経の中に於て、最も為れ其の上なり」(同五三三頁)
        と示され、最上の仏法である故に、一切衆生を救済する法であることを説いています。この仏説に基づいて、天台大師は一代の経経を華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華涅槃時に分別して、法華最第一を決定しました。
        この法華経二十八品には迹門と本門とがあり、前半の方便品を中心とする迹門十四品では一切衆生が仏と成る道として妙法が説かれましたが、即身成仏の証悟がまだ徹底していません。そこで、後半の寿量品を中心とする本門十四品では久遠の仏身たる妙法が説かれました。これは、久遠の仏身を説いて衆生を信解させ、その究極の意義として、永遠の生命中の個性における一切衆生が妙法即身の仏であることを悟らしめられたのです。
        しかし、この本門の教法において、インドに出現し、三十歳の時、悟りを開いて仏と成った釈尊が久遠からの仏であると単に示しても、人々は絶対に信じません。そこで、釈尊は久遠からの同体の菩薩を弟子として出現せしめ、その未曽有の威光勢力を持つ地涌千界の菩薩の師であることをもってその本地を示して、一切衆生を凡夫即極の本仏の悟りの境地に導かれたのです。これによって、釈尊在世の久遠からの因縁ある衆生が、寿量品によって成仏の本懐を遂げました。
        そこで、この地涌の菩薩の出現した意義には四つあります。一つには釈尊の命を受けたために来たり、二つには仏在世の衆生が釈尊に対して抱く始成正覚の執着を打ち破るために来たり、三つには釈尊が久遠の仏であることを地涌の菩薩の出現によって示す顕本の故に来たり、四には釈尊より次の時代の妙法弘通の位を委ねられ、妙法を弘めるために出現してきたのです。
        この証拠は、本門八品中の如来神力品に、釈尊は法華経をその中心の肝要法体たる妙法蓮華経に結んで、地涌の菩薩に付嘱されています。これを釈尊は、
        「要を以て」(同四七七頁)
        と明らかに仰せであります。
        この意味をさらにはっきり申しますと、釈尊の法華経は久遠よりの下種を受け取り、その衆生を脱せしめ成仏せしめる、要を含んだ広略の法華経であるに対し、地涌上行菩薩に付嘱された法華経は、直ちにその大本の要の法華経、下種の法華経であるのです。そして、その要の法華経を付嘱されたのは地涌上行菩薩でありますから、それからあとの末法において、この要の法華経は上行菩薩の所持し給うところであり、その所有は脱益の釈尊の手から離れたのです。
        そして、その所有される権能において、要の法華経たる妙法蓮華経の仏法上の位取りと、その法体を教示されるのは、末法出現の地涌千界上行菩薩なのです。この上行菩薩がいかなる形貌で現れたかは、法華経の道理と文証と現証において明らかに証明されるところであり、それは、唯一絶対の法華経の行者・日蓮大聖人であります。
        そこで、日蓮大聖人は、この付嘱の妙法五字が、釈尊の脱益の法華経二十八品に対し下種の法体であり、釈尊の要を包むも、表面は一部八巻の広の法華経に対し要そのものの法体であり、釈尊の文と義の法華経に対し意の法体であることを示されました。この意の法華経とは、寿量品の文の底に沈められた凡夫即極即身成仏の名字即の人法の法体です。そこにまた、釈尊の本門よりさらに已前の、久遠元初という根本の仏法の法体があるのです。これを、大聖人は重要な御書の各所に説かれております。
        これを法についていえば、脱・熟に対する種の妙法、広・略に対する要の妙法、文・義に対する意の妙法であり、人についていえば、久遠元初名字の仏、末法出現の日蓮大聖人であります。そして人と法の関係は、人に即する法、法に即する人、人法一箇の当体であります。
        故に、大聖人が三大秘法の随一たる本門の本尊を顕されるに当たって、南無妙法蓮華経の七字を本尊中央に示し給う所以であります。この御本尊の妙法五字・七字に、戒成慧、六度万行の一切の法門を具え給うのであります。その根本が、久遠元初人法一箇、すなわち末法の日蓮大聖人の所弘・所有し給う南無妙法蓮華経であります。
        以上は、大聖人御一期のあらゆる御書、相伝書を総合した正義として説き給うところであります。つまり、南無妙法蓮華経は、人法一箇の本仏日蓮大聖人の法界遍満の当体、すなわち本尊なのであります。
        この七字に、法界の一切の意義が具わっており、ここに妙法受持の大利益が存することを述べて、はじめといたします。』

        (以上となります)

        1. こんにちは。お世話になります。
          小生、正しい日蓮正宗の教義を友人・知人の各位にお届けさせて戴いております。日蓮正宗が素晴らしい事を多くの方達に知って戴きたいからであります。
          また若林政樹様の御先祖の宗派をお尋ね致しましたのは、日蓮正宗の資料をお届けしたいが為で御座います。本日は後ほど真言宗及び浄土(真)宗の破折資料を送信させて戴きたい次第で御座います。
          *****************************
          その資料を送っていただくのは有り難いですが、それについてもしっかり質問には答えてくださいね。どこの世界に資料を送りつけておいて、その内容についてはお答えできませんという世界がありますか?それだけは必ず留意下さい。

          *****************************
          只今よりは、日蓮正宗総本山第六十七世御隠尊日顕上人猊下が四年前に出版された『妙法七字拝仰』上巻【はじめに】より「南無妙法蓮華経」についての御指南をお届け致します。
          お時間のあられます限り、宜しければ御一読をお願い申し上げます。
          *****************************
          以下読みますが、今までの質問を早くご回答ください。回答を頂いてから次に進みます。読みましたら質問しますので、それにもお答えください。このままお答えいただかない場合は、公開上で質問いたします。
          *****************************
          以下省略
          若林政樹
          順番にやっていかないと、大変な質問の量になりますよ。全部熱心に読みますから、全部熱心に答えてくださいね。私は読んだ限りは、全て疑問点は質問させていただきます、それに答えない場合は、友達のふりをしてメッセージだと欺いた広告や勧誘を送りつける、卑劣な行為であると考えさせていただくことになります。そしてその対処をいたします。よろしいでしょうか。

          1. 切通さんから

            有難う御座います。
            申し訳ございませんが小生、申し上げております通り、難しい御質問を戴きましても、明確なお応えができるか今後も御約束ができないので御座います。
            御一読は若林政樹様に強要するものでは御座いません。
            何卒、ご理解くださいませ。
            若林政樹様が不機嫌になられ御迷惑であれば、日蓮正宗の教義を送信する事は、遠慮させて戴きたい所存です。

          2. 難しい質問では無く、そちらが送ってきた資料の意味についての質問です。
            不機嫌などなっていませんよ。
            迷惑でもないです。歓迎ですが、質問は答えてくださいね。そちらが送ってきた資料についての質問ですから。ご理解いただけましたか?

  14. 切通さんから

    若林政樹様からの御質問にお応えできませんのは、小生が解っておらないからで御座います。
    日蓮正宗の教義が全て解らない内に、お届けしていた小生の不覚で御座います。
    申し訳ございません。ご無礼を致しました。
    謹んでお詫びを申し上げるものです。
    これからは小生が理解できたもので、且つ御説明できるようになった暁に、お届けさせて戴きたいと存じ上げております。
    何卒、宜しくお願い申し上げます。

    1. しかし、思ったことを言います。そして、卑劣だと思えばそう言います。広告や勧誘であれば、そのようなことに対して対処もします。しかし、ぜんぜん不機嫌でもおこってもいませんよ。ただ、一生懸命頂いたメッセージに心込めて対処しているだけです。
      分からないものを送っているのですか。それならちゃんと分かる人に聞いて返事を下さい。それなら、単なる広告勧誘の伝搬ですよ。
      今まで送った分は責任をもってください。他の人にも友達の振りをしてこのような宗教勧誘を送っているのですか?何人ぐらいに?これは問題ですね。
      教義が分からないのに信者なのですか?サクラかなんかですか?これは大問題ですね。
      教義が分からないのに、人にその教義を送りつける。一体これはどういうことか説明ください。
      それもまるで分かっているような口ぶりで、参拝に誘うのは、これは一体なんでしょうか?念のために不機嫌でもおこってもいませんよ。率直な意見です。

        1. 教義も分からないのに、何が素晴らしいのですか?
          しかも、その競技が素晴らしいと人を誘っているのでは?無茶苦茶ですね。
          そう言っていましたね。詐欺的な勧誘ですか?

          1. 頂いたメッセージには、ふんだんに教義が素晴らしいと書いてありましたよ。

          2. 「南無妙法蓮華経と唱える事が、素晴らしいのです。」だからなぜ?
            そして、それをたくさんの思慮を送りつけて説明してくださいましたね。破折資料までお送り頂いて。だからその意味を聞いているのです。そんな逃げばかりしていても何にもなりませんよ。
            その素晴らしいと言うところを聞いているのです。あなたの送っていただいた資料を基にして。
            切通さんと打つのが大変なので、あなたで良いですか?ところで切通さんはなんて読むのですか?
            私の打ち方は、心で思っていることをそのままタイプすることができる特別な手記法で、切通さんという変換で少ししタイプがつまずきます。あしからず「あなた」でよろしいですか。
            言いたいこと言っていますが、一期一会、あなたも友達です。会えばわかります。私には、にこやかに言いたいことを言われますよ。人類全員、言いたいことを言い合ッても、心が通じ合う家族のようなものです。そう思っています。本当です。内の奥さんに聞いて下さい。それよりも、会えばわかりますよ。

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