名の無いところに実体がある

イスラム国の人質事件はFaceBookなどのSNS、そしてマスコミの情報が奔走して、私たちの周りを駆け巡る。

それらに出てくる情報は、人間の五蘊のほんの砂粒程度しか無い。

私は自分が大好きである。即ち人間たる自分が大好きであり、結果、人間の骨の髄までに興味があり、その人間の縁まで想いが果てしなく及ぶ。因果は因縁によってこの世界を形成している。

全てこの世の中に起こる現象は、人の心のなせる映像である。世間虚仮ともいうが、それが像を成している。その像には実体がある。その実体は「空」であるから、あらゆるものを和合した全てであり、すなわち無であり有である。

MIXIというSNSがある。私はそこに実名で顔写真を出して、所在を明らかにして日記を掲載していた。今もそうである。その日記には、仮名のコメントが、面と向かってなら言いそうに無いことや、吐き捨てるような雑言、強迫、感情だけの言葉に溢れる。

私にとっては、それが人間である。それに全て、あたりまえに対応する。言いたいことを言う。とても楽しい。相手は、顔が見えないし、自分が誰かも解らないと言うことで、自分の内にあることを全て吐き出してくる。感情も、また自分の知らなかった自分もである。

それほど、愛すべき人間の姿は無い。

ところが、討論が際立ってくると、仮名であっても自己顕示欲が働き、自分の表現にブレーキをかけ始めるのがほとんどである。もちろん相手に恐怖を現実的に与えることは、覚悟が必要である。すなわち、家に行って危害を加えるとか、表現の世界を逸脱したことは、その逸脱した世界の制裁を受けることになる。

しかし、そうではなく、表現は余すこと行えるはずである。しかし、多くの人がその討論を見ているという自覚が、自己顕示欲を活発化させ、自分の言い分が通らないと逃げ出す。または関係を切り捨てる台詞を吐き捨てて去って行く。酷い場合には、MIXIのシステムを使って関係をブロックをする。とても残念である。

人間は人間である。その自分を好きになれば、自分の言っていることを全て受け入れることができれば、全ての人間のことも受け入れることができる。人間を終わることが無いのであれば、それは保証される。

それを受け入れることができない者は、自分のことも嫌いであり、人間が嫌いであり、人間で無いものまたは超越していると信じているものに依存し、自らの命も、もちろん自分と同じ人間の命も奪うのをいとわない。

FaceBookはこの現実社会と連結している。そこには人間の表面しか現れない。イスラム国であれ、アメリカであれ、日本であれ、全てそうである。

MIXIはまだ、仮名である分、自分の内を出してくる。私にとって、MIXIは楽しい。MIXIに日記を書くのは、それが理由である。日記では無く、自分の好きなことを書くだけである。

人は現実社会において、自分の形があると、その形を守ろうとする。実体を表さないようにする。実態を知らないからかも知れない。深層では知っているが、受け入れたくないのであるかも知れない。

全ては表層に現れる形では無く、人間そのものという実体に存在する。

その実体と少しでも巡り合い、受け入れ合っていくことが何よりも楽しいことである。

FaceBookとMixiはこれほど性質の違うものである。表層と実相は、人の仮面を剥がしたところに境界線がある。

老子曰く。名(形)の無いところに実体がある。そのとおりである。

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