凌空勁(りょうくうけい)と易

 太極拳には凌空勁という発勁がある。

ちまたでは、この発勁を空気投げみたいな嘘っぽいものにして、YouTubeなどでもこれが凌空勁だと言ってお互いに演技の練習をしているものばかりである。

凌空勁は日本武道でも当たり前にある「敷く」という枕の先と同じである。
太極拳の古い書物でもちゃんと「敷」と表されているのである。

相手を自分の思いどおりに動かす発勁。最も簡単な凌空勁は、例えば左手揮琵琶で左手を内側に下降させながら、右足で相手を蹴ろうとする気を発する。
すると相手はどうなるか、右手で踏み込んでこちらの顔面を突いてくる。
こちらは転動の勢で動いているのであるからその中に入ってくる。
次の瞬間相手は単鞭により地に沈む。
相手を思い通りに動かしたのである。これが凌空勁の初歩である。
この凌空勁は、相手の虚実の起こりを誘いこむのであり、そこに吸い込まれた相手の攻撃は、自らが発す発勁と既に融合しており、何よりも早く、又、相手の力をも含んでしまうものである。

ここで、求められるのが、陰陽師などが得意とする虚実の検証である。
この検証が易として発展してきた。

太極拳を学ぶものは、相手を自分のものと一体としてその虚実を検証する聴勁を知る。陰陽師と同じように。
聴勁は実際にふれあっているから知るというものでは無く、このように凌空にいても知ることが枕の先であり、相手の気を読むなどと言われるものである。

相手の気を読む。相手の虚実を読む。そしてその虚実を操る。陰陽師と同じように、相手の心身を操る。

であるから、太極拳には易が伝わっている。陰陽五行説と八卦の組み合わせ、暦としての干支で,その人の生年月日を知れば、計算に時間はかかるがその人の運勢がわかる。

しかし、人間にはその易は先天に備わっている。太極拳はそれを極める。

そして虚実の状態でそのひとの今とその後の動きと、その前がわかる。凌空勁はその易を使用する。

このように、太極拳は、人間の心身を描く武道であり、それを現象としてしっかり捉えているのである。人間で無ければ武道も必要ない。

太極図の正式な名称は『陰陽魚白黒太極図』と言い、太極図はその略で,本来は外側には八卦方図或いは八卦円図が描かれている。
その八卦が事象であり、その事象を解決していくことで太極拳が武道としてなしているのである。矛を止める,すなわち解決する。武とはそういう意味である。
そこで凌空勁がいかにこの事象を相手に触れずに操れるかによって成り立つかは、全てこの事象を理解する事,すなわち易から始まるのである。

易を含む陰陽魚の太極図である。

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