霊気(レイキ)

太極拳においても、道教の基本概念であるタオにおいても、その修行の最初に我が身が霊気によって存在していることを知る。
これは無為自然における太極思想の根本である。
全ての森羅万象は霊気を帯びているわけであるから、人間もそれと繋がっていることを思い出すのである。
太極拳の套路は、霊気によって我が心身を動かす術である。
霊気は、孫悟空も纏っていたと物語の中で語られる。三蔵法師は、霊気を以て人を癒やす。三蔵法師の霊気は無の霊気であり、般若心経にある完全なる無の完全なる霊気である。孫悟空は空の霊気であり、色即是空の世界を醸し出す。すなわちその霊気は、色を帯びたものを癒やす。誰でも備えているものであり、邪気をはじく。
太極拳の神髄は、そのような霊気を内丹仙術の築基から還虚まで段階的に思い出していく。築基の時点で霊気を当たり前に使えるようになる。ここでまず人間として健康な状態になるのである。
太極という森羅万象に備わる色に、空の仁を思い出す。人間としての霊気を思い出すのである。人間としての愛である。仁。
その修行法は太極拳においても、大周天、小周天、印、運気、行気や八触、点穴、按摩などの技術と共に、坐道や存思にて確立されている。
その人間に宿る先天の性の原気の源である無為自然の霊気を思い出してしまえば、その霊気を自由に扱うことができる。
初歩の導引法は、三蔵法師や、達磨大師、道家の髙僧が行ったような手当である。
人間の心身も宇宙と同じく法則を以て変化している。その流れをまず知りうるには、古くから経絡学説がある。その経絡に流れる全宇宙の霊気を感じ取り、それを増幅させる技術が導引法である。
意念や意識などと言っている限りは、それは人の意思に左右されるものであり、霊気と繋がる無為自然の太極拳は行えない。
太極拳は道家達が陰陽思想に基づき、その大成を施した老子などが確立したタオ思想に傾斜し、根本的な世界論を無極と太極に見つけ開発した道門の行の一部である。道門の行は、人間としてこの森羅万象に還虚して生き抜く究極の修行法である。
人間の愛を超えた森羅万象の愛に基づき名付けられたのが太極拳である。
真の太極拳家は霊気という森羅万象の気と同化し、その化身として人々に霊気を思い出させることができる専門家である。
体にみなぎる五気順布は、霊気により満ちあふれ、その手を相手の気に応じて当て癒やす。初歩でも安定してこれを行うことができる。そしてその感覚質(クオリア)を練り上げる。意識や意念を排除する。クオリアを具現化して修行する。
道教の十方叢林(道教の大きな館)には、多くの民間人が心身の傷や不具合の手当を受けにやってきた。禅宗で有名な崇山少林寺においても同じである。インドの寺院でも、仏陀もそれを行っていた。キリストも巣窟において行っていた。日本においては、天台密教や真言密教にて行われていた。根本的にはアニミズムであり、インディアンや日本の原始神道にも深く根付いていて、霊気は霊術の手当として当たり前に存在するものである。太極拳の武当派には内丹仙術を基礎とした、もっと高度な霊気導引法がある。真言密教やインドのタントラの一部にも伝承されているものと同じであるがここでは伏せておく。聖人しか行えないとされていたこのような技法は、近代に「レイキ」と言って誰にでもできるとして広まった。
そのとおりで誰にでもできる。お母さんの愛が子供の胸や、痛いところに手を当てるようにで有る。
しかし、よく考えて欲しい、誰にでも愛は有る。しかし、その愛を自らの根本に見つけ、そしてそれを全身にみなぎらせ、そして相手に融合させて行くには、母神の愛のような真実の愛に目覚めなければならないだろう。
誰かに、体に触れられれば、その暖かみは伝わってくる、それは誰にでも、動物にも植物にも備わる霊気である。
その当たり前の霊気で繋がっているのは当たり前であり、それらを忘れた人は、その霊気を探し続ける。何か特別なものであるかのように、形式化する。シンボルや偶像を求める。いつの時代でも同じである。
霊気は当たり前に自分に纏われている。それを忘れただけである。だから他人や形にそれを求める。
まず、自分を愛し、全てを受け入れることができる霊気の源にある愛に目覚めることが先決である。
人に手当てをして癒やしてあげようとする心は素晴らしいことである。それだけでいいのである。特別な手法など存在しない。
しかし、真実の森羅万象の無為自然の愛を思い出す方法はある。
タオや太極拳はそれを目指したに過ぎない。それらは、片手間の術でごまかすことはできないのである。
孫悟空のように霊気を纏うことに目覚め、三蔵法師のようにその霊気のままになり、孫悟空を従えて全てを愛する。
太極拳の導引法は長い歴史の中でその道筋を知っている。
太極拳の套路は熟練すると、霊気に纏われていることを思い出す。そのクオリアがまずは導引の始まりである。
密教においても、タオにおいても、最後には愛である。その愛は、霊気における普遍性で有る。
その普遍性がもしも見つかったのなら、最も身近な人と何の陰りも無い愛に気付く。
その愛に気付いた人は今のこの世に何人いるだろうか?そうでなければ、霊気とは何かもわからないであろう。
わからないのに、霊気を具現化して示すことも、そのクオリアを形にすることができるはずがない。
そのような、小手先のマニュアルや偶像、形を安易に手に入れることで安心するよりも、自らの内にある霊気を思い出すことをお勧めしたい。見つかれば、まず、霊気の形や偶像を求めることが無くなる。そして、自らが霊気を思い出せば、最も愛し合いたい人に霊気を伝えて融和することができる。相手が完全に霊気に目ざめる。夫婦であれば、こんな素晴らしい愛に溢れる人生はない。
最後に太極拳経の末文で締めくくる。
多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」
多くの人は誤って近きをすて、遠きを求めている。 心構えのわずかな差が、修練に千里の隔りをもたらす。
霊気について言い換えれば、「自らの内にある霊気を思い出すことを捨て、誰かが示した偶像を信じ、その遙か遠くに有る真実まで見つけようとするが、それはあまりにも遠すぎるのを知らない。見つけたときには、その偶像には霊気など存在しないかも知れないのに。人の心の内など、そう簡単に本質を見いだせるなど思っているなら、人の人生を軽んじているとしか言えない。
このような驕りとも言える心構えが、人生の発見に千里の隔たりをもたらす。」全てに通じる格言である。

 

コメントを残す